十九首
散りおへき命つなぐはこんなにも無防備なるか月にさらされ
問ひかける鏡の中のこの皺は何をはこびしいつの運河か
髭を剃る詫びいるやうな貌うかび約束事はなべて重たし
起きぬけの鏡にうつる輪郭をなぞれば頬の骨で止まりぬ
負ひ目ゆゑきみの言葉の端々を取りちがひけりスープのにほふ
夢を見き過去から来たる身勝手な酔客ひとりわれを千切りぬ
音もなく吐息のやうな散りぎはに命すがしき旅程のありぬ
手を胸に動悸のはやき夜なりきボレロを聴きつねむりを待たん
かすかすと息のもれくるわが胸の下手な笛吹きなにを呼びをり
「入るな」とわれに告げをる立て札の朽ちかけてあり猫のすぎゆく
遠き日の夕ぐれつれていつまでも子どものままで死にぬる覚悟
覚悟なき老いたる夕餉のぽつぽつと皿の咲きたる蓮のごとくに
また明日も生きて目覚むる曇天の水のにほひを胸にとどめて
まう一度やりなおせると思ふときたれかを恋ふるこころありけり
吾の胸へ帰りくる鳥けふの日を飛び終へたるか墨のながれり 吾:あ
眠られぬ夜ふかくして梟のこゑかとおもふ森の吐息よ
移ろへる冬の陽のなかわが肺を抱きしむごとく忍びくるもの
雪のごと過ぎにし日々に積もりくる聞えぬ声の評決を待つ
けふを終へ明日へとつづく静寂に胸の音よく響きをりたり