千の習作 ミル・エチュード
月光59号(2019/06/30発行)
はにかみは彼の思想か夕暮れを差し出すように言葉を鎮め
含羞の漢だったよ背を丸め私と並びひとつの傘に 漢:おとこ
くちぐせの「おれは好きやで」頑なな主張にあらず飲み干すグラス
指焦げる臭いがしたか傾けるグラスはいつもジンに満たされ
ハイライト、ハンチング帽、ジンロック、ふらふら路地へ消えてしまえり
酔っぱらい行方不明の大男どこで泣くのか携帯を切り
空の青、繁りゆく空、生命は不思議に満ちた綿密な地図
きみは待っていたのかもしれず空色を映して揺るがぬ水平線を
果たしてきみは朽ちゆくものを好んだか時間はいつか錆びついた環 環:かん
病魔は突然やってきてぼちぼちと頷ききみはよいしょと立って
生命の地図を描いてはにかんで死を超えるための千の習作
痛み止め打ちつつ描く幾枚の画布のなか立ちあがるC'est la vie 画布:カンバス
波を打つ命の束をさらにまた色を重ねる うねっておるよ
魂はしずかにあるときみは言う「ええかんじやな」そのまま逝きし
花々はくりかえされる命なり裏切りのなききみの筆跡 筆跡:ふであと
カンバスに万古の細胞ゆれており世界はやがて恋に目覚める
ドゥルース、ニーチェが並ぶ書架を見る哲学を語るきみをぼくは知らない
きみのいないアトリエに埃が積もるライヒとグールドの上にも
ゆっくりと思いを語るきみがなお積み上げてゆく理論が展く
描かれて出来上がったものがすべてならきみの笑顔をどこにしまえば
やがて言葉の焔たつあかあかと画布を染めよ!と触手がのびる
何者にならずにいるのもむずかしく肩書のなききみはうるわし
うるわしき誤解の果てにぼくはいて縺れたままで続くあやとり
あんどんを灯せばゆらり立ちあがる影のような大男だったよ
「やることがある」それを最後の言葉としきみの写真はほほ笑んでおり
その笑みはぼくをほぐして突き抜けて空いちめんに広がりゆけり
愛なんて陳腐すぎるし嫌だよな笑ってしまう罪づくりかも
初めてのなにかが足りぬ夏になり秋がきたれば満ちてゆく水
名を呼べば返事するらし風鈴の音は秋空へ 会いにいきたし 音:ね
その向こういつもの通りきみがいたもういないのかと夜を出てゆく
二〇一八年七月二日朝、長年の友人で会った松尾達博君が胆管癌で亡くなった。五十七歳。亡くなる直前まで絵を描き続けた。通夜に行くと、そこには激痛に耐えて描き続けた“習作”が飾られていた。死を前にしてなぜ「千の習作」だったのか。胸を打つ。