十九首 水の歌
酒を断ち遁走のはて水無月のあぢさゐ頬をあはく染めをり
行く末を案じて見やるゆふぐれは喉もとすぎて明日もゆふぐれ
呆然と立ちつくしたり過去といふ津波がわれを包囲してをる
ああ逃亡者は独酌なりき水無月の濡れるあぢさゐただ笑まひをり
あふるほど水をいつぱい張り終へし祈りとともに海馬よ眠れ
水切りの波紋のごとくふたつみつ不安ひろがりくちびるを噛む
責められし夕べに言葉ずつしりと半解凍の肉切るごとく
蛇口から水の漏れゆくはつなつにだらりとわれは梅雨に入りぬ
高らかに「くたばつちまへ」と歌詞のままこゑ張りあげよ宣告のごと
決めかねて白夜の部屋に一人ゐし愛しか歌へぬエディット・ピアフ
あぢさゐは沈黙に濡れみづからの言ひ訳もたずうなだれず美し
桜桃忌驟雨はすぎて匂ひ立つ水をおもへばむらさきばしはや
回しても雨は降りをり地球儀に赤く汚れしほそながき染み
音信の途絶えし者よわれはまだ電車にゆられ生きてをりしが
車内には本を読むひと眠るひと生死わからぬ友のおほかり
約束を果たせぬままに雨は止む水のにほひの胸に重たし
昨日まで気づかずにゐたくちなしの香りにむせる何の咎あり
ボサノヴァのかろき風ふくはつなつの花はそよぎて名前をもたず
気が付けば引き潮のごと時はゆき人を恨まず水無月は尽く